「皆喜」ということ
「皆喜」ということ
むかし、どこやらに“皆喜禅師”と呼ばれたお坊さんがおられたそうです。
文字どおり、ミナヨロコビ禅師で、この和尚、年柄年中を通じて喜色満面で、どんなときでも悲しそうな顔をしたり、苦しそうな顔をしなかった。
なまえもそこから出てきたものだった。だからこそ、口にも怒りを発したり、愚痴をこぼしたりは絶対にしなかった。
●天気がいい・・今日は托鉢ができて有り難い。
●雨が降る・・・落ち着いて座禅ができて有り難い。
●人が来る・・・話し相手ができて有り難い。
●人が来ない・・ゆっくり読書ができて有り難い。
●暑い・・・・・暑いときには、暑くて結構。
●寒い・・・・・寒いときには、寒くて結構。
まずはこんなあんばいで、すべてが有り難い有り難いである。
あるがままの有り様に心からの合掌だ。こうなれば、皆喜禅師にならずとも、みんながみんな皆喜禅師になれるじゃないか。
すべてを喜ぼうとすれば、すべてが喜びの種になる。感謝の前には、例外はないのだ。
(山本玄峰・往年の妙心寺の管長。原文のまま)