根こそぎ失った経営者の、再建の勇気をもらおう
人生も事業も生涯にわたって、何の波乱にも遭遇せず、平穏に過ごすことができる、ということは皆無に近いのではないか。
ここに一人の倒産経営者、早川徳次(シャープの創始者)がいる。
早川は、発明した“シャープペンシル”が、プレミアムがつくほどの大需要で、生産が追い着かなくなっていた。まさに昇運である。時は大正八年のこと。
そこで、関東一円のシャープペンシル販売を一任していた日本文具製造東京支社から、工場建設資金として、2万円(帝国ホテル宿泊料7円の頃)を借り入れた。
時代は大正。工場300坪、従業員200名を数えるまでに発展していた。しかし、不運の神が舞い降りたような大天災。九月一日の関東大震災に襲われたのである。今回のリーマンブラザーズ不況並みだ。
そのときの様子を、ある経営史は、つぎのように紹介している。
「彼はすべてを失った。妻も二人の子供の命も、そして事業も。さらに“シャープペンシル”の特許まで、借金の返済に譲渡しなければならなかった」
このままじゃ貸した金は取れない、と思った日本文具製造は、「即刻返済を・・」と迫ってきた。
結局早川は債務履行に代えて、ペンシル関連の特許四十八種と機械類の一切を譲渡しただけでは済まず、早川自身が技師長として日本文具製造の大阪本社で、六ヵ月間働く、という条件まで飲まされる羽目になったのである。簡単にいえば、「金がなければ体で返せ」ということだ。
六ヵ月間の代償勤労は終わったが、もはやシャープペンシルは作れない。ある日のこと通りかかった大阪心斎橋の時計店が、二台の鉱石ラジオを輸入販売していた。
「これだ!」と直感し、一台買い求め研究改良の上、大正十四年、ついにシャープの鉱石ラジオ受信機第一号が完成。
やがて市場に出現した“シャープラジオ”は爆発的に売れ、今日のシャープの基礎固めの強い商材になったのである。しかしそのとき早川は、すでに「次は真空管ラジオの時代」を予見し、研究を進めていたのだった。
我々も、事業に失敗はつきものと達観し、挫けず常に前を向いて歩きたいものである。
ここに一人の倒産経営者、早川徳次(シャープの創始者)がいる。
早川は、発明した“シャープペンシル”が、プレミアムがつくほどの大需要で、生産が追い着かなくなっていた。まさに昇運である。時は大正八年のこと。
そこで、関東一円のシャープペンシル販売を一任していた日本文具製造東京支社から、工場建設資金として、2万円(帝国ホテル宿泊料7円の頃)を借り入れた。
時代は大正。工場300坪、従業員200名を数えるまでに発展していた。しかし、不運の神が舞い降りたような大天災。九月一日の関東大震災に襲われたのである。今回のリーマンブラザーズ不況並みだ。
そのときの様子を、ある経営史は、つぎのように紹介している。
「彼はすべてを失った。妻も二人の子供の命も、そして事業も。さらに“シャープペンシル”の特許まで、借金の返済に譲渡しなければならなかった」
このままじゃ貸した金は取れない、と思った日本文具製造は、「即刻返済を・・」と迫ってきた。
結局早川は債務履行に代えて、ペンシル関連の特許四十八種と機械類の一切を譲渡しただけでは済まず、早川自身が技師長として日本文具製造の大阪本社で、六ヵ月間働く、という条件まで飲まされる羽目になったのである。簡単にいえば、「金がなければ体で返せ」ということだ。
六ヵ月間の代償勤労は終わったが、もはやシャープペンシルは作れない。ある日のこと通りかかった大阪心斎橋の時計店が、二台の鉱石ラジオを輸入販売していた。
「これだ!」と直感し、一台買い求め研究改良の上、大正十四年、ついにシャープの鉱石ラジオ受信機第一号が完成。
やがて市場に出現した“シャープラジオ”は爆発的に売れ、今日のシャープの基礎固めの強い商材になったのである。しかしそのとき早川は、すでに「次は真空管ラジオの時代」を予見し、研究を進めていたのだった。
我々も、事業に失敗はつきものと達観し、挫けず常に前を向いて歩きたいものである。