■リーダーシップなきスポーツ指導者が、なぜ幅を利かせたか
●監督の権威も吹っ飛んだ暴力指導
オリンピック出場も考えられる柔道選手の指導者(監督)が、選手を叩く、小突く、蹴る、パワハラを口にする。みんな事実だそうだ。あきれて言葉も出ない。
そしてこれは氷山の一角という。指導力の原点が無視された低次元の事件だ。
そもそも多くの選手を指導者に託する場合、指導者のリーダーシップの有無は不可欠な前提条件である。
ところが、事件を起こした監督たちに、「リーダーシップ論」を問うた任命責任者がいたのだろうか。強い実績だけに目がくらんでいたのではないか。いまさら言うのもはばかれるが、「名選手必ずしも名監督にあらず」という言葉がある。あの柔道監督の表情を見ると、選手たちへの愛情は微塵にも感じられない。
リーダーシップを論ずるとき、“権力”(部下への命令権)と“権威”(指導者への部下の信頼感)の二大テーマは絶対欠かせない課題である。つまりこの二つの課題が健全に揃ってこそ、リーダーシップも発揮できる。では、“権威”とは何か。
権力は、簡単にいえば上意下達である。しかし権威は違う。“部下が指導者に抱く信頼感が醸成する指導者の人物像”のことだ。権力は一方的に行使できるが、権威は部下が指導者に与えることで成立するものだ。だから、“自分には権威がある”などとは言えるものではない。
この“権力”と“権威”の二本のテコ棒こそリーダーシップの原点と考えると、体罰という名の暴行を引き起こした監督たちには、リーダーシップの欠片(かけら)もない。
●全日本柔道連盟も卑劣な学校も、無責任感は同根
任命責任というものがある。こんな暴力監督を任命した底の浅い人選。
ところが当人以上に、任命責任者が事実を隠し、本人も反省しているから続投をさせると決めるなど、みずからの責任回避に走るという任命権者の行動。こんな考え方は異常の窮みだ。
講道館柔道を興した嘉納治五郎は、みずからは「柔術」を学んだが、やがて柔術を『柔道』に変えた。嘉納治五郎のいう『道』とは、“人間としての道”である。“講道館で学ぶ”という言い方も、“ただ強くなりさえすればいい”というのはダメだからなのだ。
「国際柔道連盟は、嘉納治五郎によって創設された肉体と精神の教育体系を柔道と認める」と規定している。この文言こそ現在の国際柔道連盟のいう『柔道』なのだ。
暴力監督は、嘉納治五郎の精神ではない柔術をムリヤリ移植しようとしたのだ。
その講道館柔道の基本を破壊して、何が国際試合というのか。
監督はもちろんそれ以上に、こういう異端の指導者を任命した全柔連の責任は大きい。
ところで、生徒を自殺に追い込んだ高校の顧問の場合、こんな魂胆も見え隠れする。
「この学校を有名校にできるのは、おれしかいないはずだ。他の教員に何ができるんだ。何もできんだろう。だったら黙って見ていろ。現場がわからん教員が口を出すな・・」
声なき声として、こんなセリフも聞こえてくる。
校長も、この脅しめいた言葉に萎縮していたということだろう。校長というより、“学校という組織のガン”といったほうが、現実を言い当てているようだ。
「柔道の父」と呼ばれた嘉納治五郎も、深く激しく嘆いているに違いない。
オリンピック出場も考えられる柔道選手の指導者(監督)が、選手を叩く、小突く、蹴る、パワハラを口にする。みんな事実だそうだ。あきれて言葉も出ない。
そしてこれは氷山の一角という。指導力の原点が無視された低次元の事件だ。
そもそも多くの選手を指導者に託する場合、指導者のリーダーシップの有無は不可欠な前提条件である。
ところが、事件を起こした監督たちに、「リーダーシップ論」を問うた任命責任者がいたのだろうか。強い実績だけに目がくらんでいたのではないか。いまさら言うのもはばかれるが、「名選手必ずしも名監督にあらず」という言葉がある。あの柔道監督の表情を見ると、選手たちへの愛情は微塵にも感じられない。
リーダーシップを論ずるとき、“権力”(部下への命令権)と“権威”(指導者への部下の信頼感)の二大テーマは絶対欠かせない課題である。つまりこの二つの課題が健全に揃ってこそ、リーダーシップも発揮できる。では、“権威”とは何か。
権力は、簡単にいえば上意下達である。しかし権威は違う。“部下が指導者に抱く信頼感が醸成する指導者の人物像”のことだ。権力は一方的に行使できるが、権威は部下が指導者に与えることで成立するものだ。だから、“自分には権威がある”などとは言えるものではない。
この“権力”と“権威”の二本のテコ棒こそリーダーシップの原点と考えると、体罰という名の暴行を引き起こした監督たちには、リーダーシップの欠片(かけら)もない。
●全日本柔道連盟も卑劣な学校も、無責任感は同根
任命責任というものがある。こんな暴力監督を任命した底の浅い人選。
ところが当人以上に、任命責任者が事実を隠し、本人も反省しているから続投をさせると決めるなど、みずからの責任回避に走るという任命権者の行動。こんな考え方は異常の窮みだ。
講道館柔道を興した嘉納治五郎は、みずからは「柔術」を学んだが、やがて柔術を『柔道』に変えた。嘉納治五郎のいう『道』とは、“人間としての道”である。“講道館で学ぶ”という言い方も、“ただ強くなりさえすればいい”というのはダメだからなのだ。
「国際柔道連盟は、嘉納治五郎によって創設された肉体と精神の教育体系を柔道と認める」と規定している。この文言こそ現在の国際柔道連盟のいう『柔道』なのだ。
暴力監督は、嘉納治五郎の精神ではない柔術をムリヤリ移植しようとしたのだ。
その講道館柔道の基本を破壊して、何が国際試合というのか。
監督はもちろんそれ以上に、こういう異端の指導者を任命した全柔連の責任は大きい。
ところで、生徒を自殺に追い込んだ高校の顧問の場合、こんな魂胆も見え隠れする。
「この学校を有名校にできるのは、おれしかいないはずだ。他の教員に何ができるんだ。何もできんだろう。だったら黙って見ていろ。現場がわからん教員が口を出すな・・」
声なき声として、こんなセリフも聞こえてくる。
校長も、この脅しめいた言葉に萎縮していたということだろう。校長というより、“学校という組織のガン”といったほうが、現実を言い当てているようだ。
「柔道の父」と呼ばれた嘉納治五郎も、深く激しく嘆いているに違いない。