“各コーチの一心”に思うこと
●プラスもマイナスも知る師匠
マラソンの名コーチ、と呼ばれた男がいた。その名を【中村清】と言った。
ソウルで生まれ、父親に折檻され木刀で息の根が止まるほど叩かれた、という。
後年1500メートルで日本記録を出した中村は、中学時代には頭角を現している。東京の全国中学大会には出たいがカネが無い。そこで体操の先生に手を合わせ、仲間の生徒たちには、「みんな一銭や二銭わしにくれんか」と交渉し資金を拵えた。すごい交渉力を持っている。
瀬古俊彦選手が長距離で名を残したのも、中村コーチのお陰である。
短距離で走っていた瀬古はある日、中村さんに呼ばれた。行くと中村さんがいたという。
開口一番、こう言われたという。
「きみは短距離でなく、長距離で伸びる選手だ・・」
この一言で、瀬古選手のマラソン生活はスタートした。
瀬古は、「中村師匠は、コーチに生まれたような人」と呼び、中村コーチは、「瀬古ほど、苦しい練
習に立ち向かえる選手を知らない」と呼び、偉大な選手を作り上げた。
中村さんは、一心不乱に練習する男が好きだった。
名コーチは、主人公の得意技も欠点も知っている。知ればこそ生きた教訓が生まれる。
●大西良慶師匠
若い頃はずいぶん荒行もした。行は何のために行うのかの問いに、大西良慶さんは応えた。
「世の中の間に合うためだ」と。
ある日パール・バック女史(「大地」の著者)が、京都にやってきた。
「いままでで、いちばん楽しいのはいくつの頃でしたか」と、良慶さんに訊いた。
「六十代から七十代にかけてが、最高でしたな」と答えた。
彼女は手を叩かんばかりに喜んだという。
「ちょうど私が、その年齢です」と、大喜びしたそうだ。
なんでもないやりとりだが、当然彼女の年齢を読んで言った言葉である。
お世辞や追従で出た言葉ではない。要するに“日々是好日”という言葉である。
我々はとことん言われなければ、言葉の持つ意味がわからない。ところが違う。
ある程度語れば、あとはわかる人たち。わが身を入れ替えてみたいものだ。
世の中の間に合うために、終生、世の中の動きから目をそらすことがなかった。目が不自由になってからは弟子に新聞を読ませ、「かえって世の中がよく見える」と語った。
日露戦争では、203高地の惨状を見て、「戦争は鬼だ」と叫んだ。
ベトナム戦争では、枯葉剤をまく米軍を厳しく批判した。
核兵器の廃絶運動にも熱心な人になった。
鹿児島で生まれた「五つ子」の名付け親になり、その成長を喜んだが、肝心の子供たちは、その後どうなっているんだろうか。世の師匠の言葉をどう解釈しているのだろうか。
世の中の変化が激しい。たまには昔日の思い出を語らないと、すぐに現実の姿に被い尽くされてしまうかも知れない。昔日の面影は教訓に満ちている。