贅沢と貧乏とで人生は変わる。しかし贅沢も貧乏も永続きはない
●貧乏が人を育てる
オムロン(本社・京都)という会社がある。
従業員は3万5千名を数え、売上高は連結で8千億円に手の届く大企業である。
創業者は、九州の熊本出身の立石一真(1991年歿)という人である。
この人自身が書いた「私の履歴書」に、つぎのような一文があった。
「ある冬の夕暮、氷雨の降る街角で見知らぬ婦人に呼び止められ、年齢を尋ねられたので、〈小学校五年です〉と答えると、〈まあ、かわいそうに〉と、近くにあるその人の家に招かれ、お茶とお菓子をごちそうになったことがある・・」
「私の人生で、貧困は少年時代から始まった。よく〈ずいぶん苦労されましたね〉と言われる。しかしその貧しい境遇が、今日の幸せをもたらしたといえる」とも語っている。
また、こんな一文もあった。
「私が子どもの頃は、“貧乏の哲学”とでもいう精神的な支えがあったことも確か。
従って、人の親となってからも、自分の子どもたちに対しても、〈貧乏という条件を作ってやらなければいけない〉とつくづく感じている・・」
なるほど、考えさせられる。
一方別の話であるが、ある会社の社長には、子どもができなかった。細君は子宝を授かるように、新興宗教にすがった。すると男の子ができた。頼もしい会社の後継者だ。信仰で子どもができるはずはないのだが、そこを信じるからこそ信者というのだろう。
時が経って、この子が東京の大学に入るや、その社長は毎月100万円ずつ仕送りをした。
ところがこの息子にとっては、自分を規制するものは何もない。金はタナボタで毎月100万も使える。何をしようが、何に金を使おうが、自分に意見を言うものはいない。
ではこの息子は、贅沢な金と自由を生かして、立派な後継者になれるよう、自分を磨いたのだろうか。答えは「ノー」である。会社はとっくに破綻している。
こちらは、他山の石とすべき話である。