渋沢栄一びっくり人物伝
●気宇壮大な人だった
現在の埼玉県深谷市で1840年に生まれ、1931年に没するまで活躍した財界人。
この人をモデルにしたテレビが、既に始まっている。
かつて植村甲午郎というフジテレビや日本航空などの会長を務めた人がいた。この植村さんが現役で活躍していた頃、こう語っていたことがある。
「私が渋沢さんを、偉大だと思うのは、渋沢さんが大蔵省在任わずか三年の間に、税法、貨幣制度、金融制度などの法案を作りあげているということです。」
つまりこういう基本から、渋沢は勉強していたことである。
仕事をする上での基本は、四つであった。
第一の基本。 「信用を第一とすべし」
論語読みの論語知らずというが、渋沢は「論語と算盤」を自ら書き下ろしている。文武両道に秀でていたということだ。その結果、商人は世間の信用を得ることが第一であるという。
第二の基本。 「利益は共有すべし」
現在の株主に当たる人に、会社が儲かったら配当を支払っているが、これが基本になっている。その仕組みを考えたのである。
第三の基本。 「国際交流すべし」
国際的な交流は、現在では当り前だが当時は飛躍した考えとして捉えられていた、しかし渋沢のお陰で、関東大震災では、海国から多くの支援が届いている。
第四の基本。 「弱者を助けよ」
社会福祉事業に力を注いだ。当時から先見の眼で事業を考えた。
●会社の設立に積極的だった
渋沢が考えた田園都市は、現在では東急に引き継がれている。たとえば道路を放射状に巡らすなどである。1918年に会社設立に関与している。
広島水力電気、現在の中国電力は、1897年に設立されたが、これにも参画している。
東京製鋼は、1887年に設立。これにも参画している。
第一国立銀行(現みずほ銀行)は、1873年に設立。これにも参画している。
帝国ホテルは、外国からの賓客が増えるので、1890年に設立参画している。
製紙業(現王子ホールディングス)は、1873年に設立参画している。
富岡製糸場は、メイドインジャパンの世界への輸出の拠点として設立参画。
輸送では、JR東日本の設立に設立参画している。
渋沢栄一が生涯に関係した営利事業は500余りと言われ、非営利的な公共事業が600余りとも言われている。
明治10年には、日本商法会議所を創立し、初代会頭となる。これが現在の商工会議所に受け継がれている。多くの財界人を育てて、17年間もトップの座の責任を果たした。